亡父十三回忌のため帰省
大正十三年 三月(1924)38歳

ふるさとに 帰り来りて まづ聞くは
        かの城山の 時告ぐる鐘


ふるさとの人達と 帰省の折


坪谷神社


奉納した板
  牧水は大正十三年三月、長男旅人を連れて帰省しました。
 亡父十三忌の法会を営むための帰省であります。 
  旅人を連れて帰りましたのは旅人に祖父の墓に参らせ、久
 し振りに祖母に逢わせ、まだ見ぬ父の故郷を見せておきたい
 からの思いたちでありました。
  帰省二日後喜志子夫人に出した手紙に次のように書いて
 います。

  『一昨夕帰って来た。おばアしゃんも御機嫌誠に斜ならず、
 一泡吹かせられるかとおもったにまるでその反対、こちらの
 方が却って痛み入る始末、囲炉裡端に打寄って何彼の話の
 始ったところ来客、土地の郵便局長と青年会々長(この男、
 小生の小学校友達)とが、村はずれまで出迎えに行こうとし
 たところ、「もう、いんなんたげな」とて寄ったのだ。深夜まで
 飲酒、翌朝々寝して起きると、乃ち一杯、そのうちまた来客
 これもまた小生と小学時代の同級生にて競争者たりし而し
 て目下村会議員をつとむる寺原某なり、また一飲、そのうち
 に村のそれこそ大凡全部が入り交り立ち替りやって来る、
 そのうちに生きた鶏を持ち来るあり、今日とらしたという雉
 子を持ち参るあり、三々五々、牧水、ゆっくり飲むひまもな
 し。お袋も絹も(中略)てんてこまいなり。今も、この手紙を
 書きかけているところへ昔の女友達などやって来るあり、
 階下に呼び下され「お婆さんになったなア」「おめェもお爺さ
 んにならしたのう」等々の問答よろしくありて辛うじて寸暇を
 得、椅子に凭るを得たるの図なり。(以下略)』

  牧水はすでに日本を代表する歌人であります。 村では
 直ちに大歓迎会が開かれ,牧水は母と共に招かれました。
 謝辞の中で牧水は 「自分の今日あるは母のお蔭です」
 と母への感謝を涙をながしながら述べました。

  幼な友達が、けやきの木の板を持参して、氏神にあげる
 歌を書いてくれ、と頼みました。  牧水はすぐ筆をとって、

  「久し振りに故郷に帰り来れば旧友矢野甲伊、富山豊吉
 の両君この板を持参して氏神に奉る歌を書けという。即ち 
                      氏子の一人 若山牧水」


   うぶすなの わが氏神よ 永しへに

          村のしづめと おはすこの神」


  と書いて与えました。 二人は直ちに坪谷神社に奉納しま
 した。
 牧水生家の隣りに矢野寅吉という爺がいました。 牧水が生れた時から「繁坊々々」と呼んでた
いへん可愛がりました。 牧水も「寅おぢやん、寅おぢやん」と親しみました。 
 この老人が来て互に盃を交しました。
 その際「お前もこんなに偉くなると繁坊じゃあるまい。 今から何と呼ぼうか」と云いますと、牧水
は手を横に振って、「いやいや死ぬるまで繁坊と呼んでくれ」 と云って次の短冊を贈りました。

         お隣りの 寅おぢやんに 物申す

                永く永く生きて お酒飲みませうよ


 裏に 「矢野寅吉おぢやんに贈る歌 お隣りの若山しげ坊」 と書いています。

 親友の那須九市が孝行の歌を書いてくれと頼みましたら、牧水は 「僕は不幸の子だから孝行
の歌は出来ないよ」 と断りましたが、是非々々と頼まれて、

         老いゆきて 帰らぬものを 父母の

                 老いゆく姿 みまもれよ子よ


 と書いて与えました。

 牧水は母が朝夕世話になる近所の人々に半折を贈っています。

       より合ひて 真すぐに立てる 青竹の 藪のふかみに 鶯の啼く

      山川の すがた静けき ふるさとに 帰り来てわが 労れたるかも

      幼くて 見しふるさとの 春の野の わすられかねて 野火は見るなり

      多摩川の 浅き流れに 石なげて あそべば濡るる わがたもとかな






  九 州 地 方 の 旅
大正十四年 十月(1925)40歳



 雑誌『詩歌時代』


この頃の牧水


別府で


太宰府で
  牧水は大正十四年に沼津に自家を建てました。又永年考
 えていた雑誌『詩歌時代』を刊行しました。
  その結果多額の借金が出来ましたので、その借金を支払
 うために揮毫頒布の旅に十月夫人同伴で九州地方に出ま
 した。
  八幡、福岡、長崎、熊本、阿蘇、霧島、鹿児島を廻り、十二
 月八日都農の姉宅に着き十日に母と都農の姉と延岡の姉
 を連れ別府に遊んで沼津に帰りました。
  この旅行記中宮崎から延岡あたりまでの紀行を次のように
 記しています。

   「日向路の汽車は全部平地を走るのである。
  宮崎までは乾いた平野、其処からは海に沿う。
  海に沿うた中にも高鍋から美々津岩脇附近の海岸は松林
 の明るさ、美しさ、磯から浜の曲折に富んだことなど、眼に残
 る景色である。
  太平洋の遠いはてのうす紫に光るのなどもわたしには思
 い出深いものがあった。

 岩の間を這ひて歩く、はだしで、笑ひて浪とわれと鵜が

 一羽不意にまひたちぬ、岩蔭の藍色の浪のふくらみより

 水平線が鋸の刃の如く見ゆ、太陽の下なる浪のいたまし

 さよ わが窓のつめたさよ、海はけふげにいくたびか色を

 変へけむ とある雲のかたちに夏をおもひ出でぬ 三月の

 海のさびしき紫紺 手に触るるわびしき記憶 にがき悔、

 岩をめぐりて浪ぞむらがる さらさらと砂ぞくづるる わが

 踏めば砂ぞ崩るる 藍色の海の低さよ嬉し、嬉し、海が曇

 る、これからわたしの身体にもあぶらが出る


  など、この美々津から岩脇あたりの海岸で作ったもので
 あった。
  都農の姉の家の裏木戸を出ればたいらかな肥えた畑で、
 其処に立つと真北に尾鈴山が仰がるる。その山の向う麓に
 わたしの生れた村はあるのである。(中略)
  延岡から東、別府までの汽車はわたしには初めての線路
 であった。
  いい景色があると聞いていたのであちこち眺めたいと思う
 たが、都農の義兄の家での接待酒が利いて、ともすればう
 とうと眠りかけた。
  然し、冬枯の赤錆びた山肌や、多分祝子川(ほうり川と読
 む)であろうと思わるる川の痩せた川原が遥か目下に流れ
 ていたりするのが折々眼に触れて、静かな車中であった。
                (以下略)」